2011年6月1日水曜日

ルポ・石巻 2
























先週末、再び宮城県の石巻市を訪れた。
前回の被災地入りから一ヶ月。
街はいまだ雑然としていたが、一部の飲食店やガソリンスタンドが営業を始めるなど、復興に向けて少しずつ動き出していた。

台風が近づく悪天候の中、ベースキャンプとなる専修大学に到着。
小部隊4人のメンバーで乗り込んだ今回のボランティアも、家屋の泥出しと瓦礫の撤去が主な作業となる。

現場は、港から程近い活魚料理店だった。
津波により建物の一部が流され、残った部分も激しく損壊している。
内壁の高さ3mくらいの位置に、浸水の痕が鮮明に残されていた。

「この位置から水が引くのに、随分と時間が掛かりましたよ」

料理店の若旦那が、淡々と当時の様子を語ってくださった。
地震当日、津波に飲み込まれた車のクラクションが、町中いたる所で鳴り響いたという。

「この近くに幼稚園があるんですが、そこに通う園児たちの母親が随分と犠牲になりました。わが子を助けようとしたお母さんたちが、役場の人間の制止を振り切って、泣き叫びながら津波が近づく幼稚園に駈けていって……」

建物の2階に避難していた園児たちは、全員無事だったという。

せつない話だった。
生死が紙一重の状況でとったその行動は、「愛」以外の何ものでもなかったはずだ。
残された子供たちはこの先、母親のいない自らの境遇に迷い、道を見失ってしまうことがあるかもしれない。
しかし、母親のとったその行動の意味を知る時、きっと、温かく大きな愛情に包まれることだろう。
子供たちの負った心の傷が、一日でも早く癒えることを、ただ祈るばかりである。


作業翌日。
石巻市内を一望できる日和山の頂上へと向かった。
その日は、朝から強い雨が降っていた。
頂上から見渡す石巻は、まるで空爆された街のように、どこまでも殺伐としていた。
瓦礫を撤去する重々しい重機の音が、辺り一面に広がっている。
同行した他の3人も、雨に打たれて無言のまま街を見つめていた。
冷たく色のない光景の中で、亡くなった方々に手向けられた献花だけが、鮮やかな色彩を放っている。

復興にはまだ長い時間がかかるだろう。

「また戻ってこよう」

そう決意して、雨の石巻を後にした。

2011年5月11日水曜日

ルポ・石巻


























ようやくの機会を得て、石巻市の被災地に入った。
TVでの報道も日に日に少なくなり、ともすると、すでに過去の出来事であったかのように流れ去ろうとしている事実。
そんな状況に言いようのない違和感を覚え、どうしても自分の目で“現状”を見ておきたいと思ったのだ。

新宿からバスで約7時間。
夜の22時に発ったバスは、翌朝4時半に石巻のベースキャンプに到着した。
所々に、春霞のように美しい薄桃色の花が見える。
石巻は、ちょうど桜の季節にあった。
街は、想像していた以上に壊滅的だった。
あるはずのない場所に横たわる船。
小学校のプールに沈む車。
津波に破壊され、辛うじてバランスを保っている家屋。
アスファルトの路傍には、魚や小動物の屍骸が転がっている。
限られた日数、限られた時間の中で、一体自分に何ができるのか?
延々と無彩色が続く街に立つと、TVで傍観していた時に感じた無力感とは違う、もっと大きな、茫洋とした無力感に抱かれた。
街全体が、腐臭のような何とも言えない臭いに包まれている。
砂塵が舞い、時折視界が濁る。
マスク、ゴーグル、雨合羽、長靴……
今回の被災地入りに際し、着用を勧められたそれらの防具。
その必要性を、現地に入るなり身をもって体感することとなった。

縁あって、とある家屋の汚泥出し作業を手伝わせてもらえることになった。
家主は、71歳の老人。
3月11日のその時、老人は、この家屋の一階に居て津波に飲み込まれたのだという。
必死の思いで二階に逃げ果せた老人は、以来、半壊状態のこの家屋で生活を続けている。
一階の床下に堆積したヘドロの撤去が、我々に依頼された作業であった。
角スコップで掬った汚泥を、麻袋に詰めて運び出す。
延々と繰り返すその作業のその過程で、汚泥の中から様々な家財が掘り起こされる。
本、食器、洋服、書類や仏具の類まである。
汚泥にまみれ、すでに原型をとどめていないものもあるが、老人にとってはその一つ一つが大切な思い出だ。
掘り起こされた品々に付着したヘドロを丁寧に拭いながら、感慨深い表情を浮かべる老人。
その表情を見ていると、あまりの無常さに胸が詰まる。
先祖代々受け継いで来たという仏壇と神棚が、この壊滅的な被害の中、奇跡的に原型を留めていた。
それらを壊れないよう慎重に運び出し、出来得る限り元の状態に近づけるよう、心を込めて磨いた。
救いは、老人の明るさだった。

被災地入りする以前、どの様な心境で現地に入るべきか懊悩した。
少なからず、被災地に対して好奇心を抱いていたことは否めない。
そうした己の好奇心による行動は、亡くなった多くの人々を冒涜する行為なのではないかとも思った。
しかし現地に入ると、そんな小さな迷い事は瞬時に消えた。
被災地入りの動機はどうあれ、ここで必要なのは“行動”だけだ。
我々が想像する以上に、被災者は前を向いている。
深い傷を心に負い、それでも必死に生きようとする人々を前に、迷う余地などなかった。

2日間を費やして老人の家屋から汚泥を運び出したが、大して状況が好転したとは思えなかった。
それでも老人は満面の笑みを浮かべ、我々一人ひとりにお礼の言葉を述べてくださった。
翌日、老人は72歳の誕生日を迎える。
我々は事前に用意していた色紙に思い思いの言葉を綴り、老人にそれをプレゼントした。
プレゼントのお返しにと、老人は謡曲を歌ってくださった。
汚泥出しを終えて幾分ましになった家の中で、我々は老人の歌を聞いた。
家の中をすり抜けてゆく風が、疲労した体に心地よかった。
渦中にあるはずの老人が、誰よりも凛として見えた。

生きていることが美しいと思える、本当に尊いひと時だった。

被災地はいまだ渦中にある。
我々は常にそのことを念頭におきながら、被災地と寄り添って日常生活を送るべきだ。
GWのボランティア団体が被災地を後にすると、慢性的に人手不足となることが予想される。
今後、長期間に渡って人々の助けが必要になるだろう。

今回の経験を糧として、僕は再び被災地に入るつもりだ。